親孝行の旅、その2
2010年 10月 15日
義父の実家から呉市街に戻って、大和ミュージアムに行きました。
呉市は明治以降、軍港として海軍の拠点となった所です。
現在は造船・鉄鋼などの産業として発展していますが、その歴史は戦争と切り離せません。
自分の生まれ育った町と戦争の歴史、義父はそれらの展示をゆっくりと時間をかけて見ていました。
普段なら200mも歩けば足が痛くなってしまうのですが、休憩することなく一つ一つをしっかりと見て回っていました。

戦艦大和の1/10模型。
1/10と言えどもその大きさは圧巻でした。
本物の大和は鹿児島沖の海底にひっそりと沈んでいます。

そして、回天も展示されていました。
こんな魚雷の中に一人乗り込んで、真っ暗な海の中を敵艦に向かって突っ込んで行くとは…。
搭乗員となった人達の遺書や遺品なども展示されていて、なんともやり切れない思いでした。
2階から大和の写真を撮る義父。
展示してある「○○大尉」「××中将」などの写真を見ながらボソッと、「この人の息子が同級生やったんや」とつぶやいていました。
戦争が身近にあった時代に育った義父にとって、今のこの時代はどう写っているのかな。

港では今日も新しい船が造られていました。
そして最終日は広島市へ。
姪っ子達もいることだし、やはり広島平和公園へ行かなくては。
私は高校の修学旅行で一度来たことがありますが、その時は公園で少し過ごして集合写真を撮り、そのまま倉敷へ向かってしまったので正直あまり覚えていませんでした。

公園内の「平和の池」の両脇に植わっている木々達。
剪定の形がバラバラで独特です。
なんか、人間にも見えるような。

そして資料館へ。
たくさんの外国の方々が見学していました。
これは原爆投下前と後のジオラマが並んでいる所です。
ボランティアガイドさんの説明を聞きながら、当時の人々の思いに心を馳せます。
呉にいた義父も、あのキノコ雲を見たそうです。
この日も空は快晴で、公園は本当に気持ちのいい清々しい空気でした。
65年前の8月6日、ここが地獄だったことは想像すらできないほど、平和な時間が流れていました。

小さく写っているサギ、ずーっとここで羽を休めていました。
ということで、今日はちょっと真面目なお話でした。

呉市は明治以降、軍港として海軍の拠点となった所です。
現在は造船・鉄鋼などの産業として発展していますが、その歴史は戦争と切り離せません。
自分の生まれ育った町と戦争の歴史、義父はそれらの展示をゆっくりと時間をかけて見ていました。
普段なら200mも歩けば足が痛くなってしまうのですが、休憩することなく一つ一つをしっかりと見て回っていました。

戦艦大和の1/10模型。
1/10と言えどもその大きさは圧巻でした。
本物の大和は鹿児島沖の海底にひっそりと沈んでいます。

そして、回天も展示されていました。
こんな魚雷の中に一人乗り込んで、真っ暗な海の中を敵艦に向かって突っ込んで行くとは…。
搭乗員となった人達の遺書や遺品なども展示されていて、なんともやり切れない思いでした。

展示してある「○○大尉」「××中将」などの写真を見ながらボソッと、「この人の息子が同級生やったんや」とつぶやいていました。
戦争が身近にあった時代に育った義父にとって、今のこの時代はどう写っているのかな。

そして最終日は広島市へ。
姪っ子達もいることだし、やはり広島平和公園へ行かなくては。
私は高校の修学旅行で一度来たことがありますが、その時は公園で少し過ごして集合写真を撮り、そのまま倉敷へ向かってしまったので正直あまり覚えていませんでした。

公園内の「平和の池」の両脇に植わっている木々達。
剪定の形がバラバラで独特です。
なんか、人間にも見えるような。

そして資料館へ。
たくさんの外国の方々が見学していました。
これは原爆投下前と後のジオラマが並んでいる所です。
ボランティアガイドさんの説明を聞きながら、当時の人々の思いに心を馳せます。
呉にいた義父も、あのキノコ雲を見たそうです。
この日も空は快晴で、公園は本当に気持ちのいい清々しい空気でした。
65年前の8月6日、ここが地獄だったことは想像すらできないほど、平和な時間が流れていました。

ということで、今日はちょっと真面目なお話でした。



by kura_yang | 2010-10-15 00:44 | 日々のお話